ObjectTheater をめぐるお話その1

 Object Theater というおそらくみなさん聞き慣れないものを始めたんだけど、結構これが前途多難。


ネットで調べてみるとまず沢則行さんのインタビューがヒットするんです。

この方はチェコのプラハに住みヨーロッパを中心に活躍されている人形作家の方です。


沢さんについてはあとでもう少し詳しく記述します。


それで、沢さんによる人形劇、パペットシアター、パペットプレイというものは、劇人形だけで舞台を作ると言うことで非常にファンタジーがあって有利なようだけど、いざ実際にやってみると、これほど不自由な世界というものはない、と。

ものすごく制約が多いから行き詰まる。

特に東欧の場合は深刻だった。


人形劇団の俳優というのは人形劇芸術家、ようは国家公務員。

国が奨励する芸術として予算をもらって、次々と人形劇をつくらされるので、およそ人間が考えつく人形を使ったファンタジーのバリエーションはほとんどみんなやりつくしてしまった。


そうやって人形劇がマンネリ化した。

なんとかこの状況を打破しなければ、芸術の一ジャンルとしての人形劇が消滅してしまう。


しかも共産主義がだんだんダメになって、国の財政が落ちてきて、まもなく革命だというような時期に、もうとにかく新しいジャンルを創造しなければ自分たちが食いっぱぐれてしまうという危機感のなかで生れたのがオブジェクトシアターだったというわけです。


きわめて切実なというか、現実的な理由が背景にあった。


それで彼らは、オブジェとか等身大の木彫りの人形とか、あるいはマスクとか、どう見てもパペットやマリオネットとは呼べないようなモノが舞台に登場する芝居をつくりはじめた。ポーランドでは1950年代にすでにそういう芝居が演じられてた


厳密に言うと、オブジェクトシアターというのは、人の形をしていない「物」を命ある「者」に見立てて演じる芝居なんです。お湯を沸かすやかんとか傘とかランプシェード、あるいはボールペンとか机とか「物」ならなんでもいいんですけど、ようはオブジェクトが登場人物になる芝居ですね。そこから、従来の人形劇の枠組みには納まりきらない新しい人形劇の流れを総称する言葉としても使われる。


ただ、そういう広義の使い方では、いまは「フィギュアシアター」という言葉のほうが一般的。

オブジェクト(object)は物体、フィギュア(figure)は形態、形象ですから意味合いも広いし、ようするに開かれた人形劇、人間も出るし、人形も出るし、モノも出るし、仮面も出るし、どんなジャンルともクロスオーバーできる、形あるものの舞台ということで考えられたのがフィギュアシアターという呼び方というものらしい。


では、従来の人形劇の「制約」とはなにか?

については


体験的オブジェクトシアター論

― 沢則行氏インタビュー ―

※このインタビューは、『Puppet House通信』No.4(97.8.1発行)に掲載されたものです。


からもう少し引用させていただきます。

人形は人が使わないと動かない、人が使うようにしか動けない。

コレって、人形芝居の本質そのものなんですけど、人形は、ひとりでに舞台で立ち上がって歩くことは出来ない。


それが人形の持っている本質的な不自由さなんです。

たとえば、舞台で人形を急に飛ばせたいというときに、非常に技術的なことで言えば、放り投げるか、糸で釣るか、誰か別の人間が持ち上げて持っていくかしかない。

とにかく人形を動かすためには、何らかの作用、人間の働きかけが必要になる。


それが制約。

ものすごく大きな制約。


お客さんはみんな言うんですよ。「人形は人間ができないことができていいですね」って。でも、本質的には人形は人間ができることしか出来ないんです。逆に言えば、人形ができることは、ぜんぶ人間の芝居でできる、ほとんどできるハズなんです。


人間とモノがいっしょの舞台に立つオブジェクトシアターやフィギュアシアターなら、その制約が越えられるのか?


人間と人形、あるいは人間とモノがともに舞台に現れているからオブジェクトシアターだとよく言われるんですけど、人間と人形、モノがともに舞台で演じるというのはあくまでも現象面。


ブジェクトシアターとかフィギュアシアターというのは、本来、そうした現象面というか、操作方法の一ジャンルではなくて、メソッド、作劇法の一ジャンルです。


方法論というか、芝居のつくり方を指す言葉。


人が隠れて操っているんだけれども、お客さんは人形だけを観ることにするという約束ごとがある。



人形劇が持っている「制約」自体をお客さんに見せてしまう、さらしてしまう、その制約から解き放たれるひとつの方法はないものかと。

人形は人間が操らなければ動かないという制約自体を見せてしまうということは、同時に、人形劇だから舞台に人形やモノが出てくるのは当たり前だという、従来の人形劇の大前提には立てないということでもある。


人形をいかにうまく使うか、いかに人間らしく動かすか、あるいは信じられないようなファンタジーをお客さんに感じさせることができるかどうかは問題ではなく、なぜこの芝居に人形が必要なのかを考えながらやっていく。

この芝居に人形を使う必要がないと思ったら、人形を使うな。

人形が出てくる必然性が最大の問題。


そこには閉じたファンタジーワールドとしての人形劇の美しさとか幻想はない。


出遣いだから遣い手が出るのは当たり前だという割り切りを無意識のうちに持ってしまっている。

人形の顔の横で人形遣いがセリフを喋って人形を動かしてる舞台というのは、いったい人形を見ればいいのか、人間を見ればいいのか、どうも戸惑ってしまう。あえて極端な言い方をすれば、人形を使わなくたって役者が自分で演じてセリフも喋ればいいじゃないか、と。


日本だとメソッドってべつに意識する必要ないんですよ。脚本家が書いた脚本があって、演出家がそれを読み込んで、配役して、読み合わせがあって、舞台美術の発注をして、できてきた人形をもって練習して、音楽をつけて、小屋に入る寸前に照明のデザインをして、本番に突入する。極端なこと言えば、その一種類しか作劇法はない。


ところが、クロフタ・メソッド(これも後で解説します)だと、たとえば、脚本もない、役者も決まってない、人形もない状態で、照明だけで舞台づくりをはじめるんです。最初の2週間は舞台に照明家と演出家だけ。ストーリーのアイデアだけ演出家の頭の中にあって、色のイメージからはじめるんです。この色とこの色とこの色を使おう、と。


で、つぎにこんな道具が欲しいということで、美術監督が本格的なデザインをはじめる。まだ役者も決まってないし、台本もない状態で、工房が人形や道具をつくりはじめるわけです。で、道具ができて、人形ができて、演出家はまた照明と打合せをする。それから役者が決まって、人形を持って、役者のイマジネーションと演出家のイメージで舞台をつくりはじめる。で、最後にようやく脚本を書きはじめるんです。


役者や美術家や照明家が自分のセンスやイマジネーションで、どんどん無から有を即興で生み出していって、たくさんの逸話や人形や照明の色を削ぎ落としていくわけです。出しちゃ捨て、出しちゃ捨てしながら創っていく。だから、脚本の読み合わせとかってないんですよ。でも、それもたくさんあるメソッドのうちのひとつ


あと例えば、フランスの“テアトル・ド・オブジェクト・チューラック”。この劇団はモノからはじめるんですね。たとえば、アイロンとか椅子とかそういうモノがあって、それと役者がずっーと何日間もかけて取り組みながら、誰も想像しなかったようなモノの動きとか演技をつくっていく。そこからストーリーができてくるんです。劇団によっては、音楽を先につくってからはじめるところもあるし、いろいろなんですよ。固まったメソッドはないというか、むしろある固まりかけている観念、作劇法を壊していく動きが特徴だと言ったほうがいいかもしれません。


ヨーロッパでも、最近また、いわゆる人形劇らしい人形劇の芝居が増えてきていて、フェスティバルでもそうした人形劇がメインというものもあったりするわけですね。でも、そうした反動というか揺り返しも含めて、いちどフィギュアシアターの洗礼を受けた者が、また新しいスタンスで人形劇らしい人形劇に取り組んでいる。けっして昔のままの人形劇じゃない。フィギュアシアターやオブジェクトシアターには、小さなファンタジーワールドに閉じ込められていた人形劇家たちを解き放ったという意味がある。


つまり美術の劇、人形自体も美術作品なんだけど、「美術」という言葉は日本語ではちょっと弱い気がしますよね。ようはアートによって演じられたり表現されたりする舞台。結局、普通の人間の芝居と人形劇と呼ばれるものが決定的に違うのは、人形劇はビジュアルにつくられたというか、アーティフィシャルなもの。


その場合のアーティフィシャルというのは、「人工的な」という意味。


そうです。人工的につくられたものが主役を務めるというか、重点を占める表現なんですね。そういう意味で美術とか造形の劇、ビジュアルな表現によって構成される舞台ということなんですけど、いまひとついい言葉が見つからない。


※沢則行氏は1961年、北海道生れ。人形劇団ひとみ座を経て、札幌で人形芝居プロジェクト・ライオンを旗揚げ。91年、人形劇の国際ワークショップ『バベルタワー』に参加すべく渡欧。92年からプラハ在住。95年、東京渋谷の青山円形劇場にて、仮面と人形を使った一人芝居『マクベス』と『ミッシング』(現『フォレスト』)を上演。97年からは、チェコ国立芸術アカデミーの講師として舞台美術とパフォーマンスを教えている。ヨーロッパを拠点に活躍する数少ない日本人人形劇家の一人である。











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